自分の気持ちを満たすってどういうことなんだろう。
希死念慮にまみれている私は、考えました。自分の気持ちが満たされていれば、希死念慮も少しはなくなるかなあと思ったのです。
いくつかの本を読んで思ったのですが、自分を満たしてあげるには、ありのままの自分を受け入れてあげる必要があるんじゃないかって思っています。
以前、ハ・ワンさんの「あやうく一生懸命生きるところだった」という本の一節にこんな言葉があると紹介しました。
「リスは、ほかのリスより美醜に劣るとか、ドングリを集められなかったからといって自殺したりはしない。動物たちには幻想がなく、ありのままの自分で生きている。現在の自分の姿に悲観して自殺を選ぶのは人間だけなのです。
ゆえに、幻想の自分を合わせようと抗うことは好ましくない。幻想を捨て、ありのままの自分を愛しなさい。自分はまあこのくらいの人間なのだ、それでも悪くないね、と」
自殺や死にたくなる気持ちは脳のエラーだと、よく言われます。その脳のエラーが起こるのは、このありのままの自分で生きるという生き物としての本来の在り方を忘れてしまっているときなのではないかと、私は思うのです。
そしてありのままの自分でもいいじゃん、と思うにはどうしたらよいか。私なりに考えてみたのですが、
「今の自分にも価値がある」「今の自分だからこそ得られるものもある」と思えるようになればいいのではないかというのが私なりの結論です。
例えば私の場合、「気分変調症という病気になってしまったばっかりに、私は幸福にはなれないんだ」と思ってしまっていました。
でもそうじゃない。気分変調症の私にも価値があり、気分変調症の私だからこそ得られるものもあると思うようになったのです。
私の大好きな作家である喜多川泰さんの書かれた、「手紙屋」蛍雪篇~私の受験勉強を変えた十通の手紙~という本に、足の不自由な登場人物が出てきます。
彼はバイクの事故で大ケガをし、それ以来足の自由がきかなくなったのです。
しかし彼は自由を奪われた足を呪うのではなく、その状況を受け入れて、それどころかむしろその状況に感謝し、懸命に自分の人生をすばらしいものにしていこうと努力しているというのです。
…もし私が同じ立場だったら、「私は足が不自由だから幸福にはなれないんだ…」と思ってもおかしくないような状況だと思います。
でも、彼はそうじゃなかった。その状況を受け入れ、感謝すらしていたんです。
私が気分変調症になったのは、決して喜ばしいことではない。つらいこと、大変なことだっていっぱいありました。ですが、今の状況だからこそ得られたものもある、と前向きに捉え生きることはできるんだと学びました。
例えば、私の場合。
気分変調症になったからこそ、このブログにその経験談を書くことができたし、それをこうして読んでくれるあなたと出会うこともできました。
気分変調症にならなければ出会えなかった人もたくさんいます。
高校生のとき、気分変調症によるうつ状態がひどく、受験勉強もまともにできなかったため、指定校推薦で行ける大学を探し、入学しました。
そこでかけがえのない友達、素晴らしい学び、素晴らしい本との出会いを得ることができました。その大学で私は学年1位の成績をおさめて卒業することができたのも、思い出深いです。(このあたりの私の過去の話は、需要があれば今度します(笑))
気分変調症だからこそ、この大学との出会いがあったので、人生は何が起こるかわからないものです。
…気分変調症になったからこそ、出会えた人や得られたものもたくさんあったのです。私はそれに気づかず、「気分変調症の私は幸福にはなれないんだ」なんて思ってしまっていたわけです。
私は、「気分変調症にさえなっていなければ、もっと良い人生になっていたはずなのに」とずっと思っていました。その考え方自体が、そもそももったいなかったなあ、と今では思うのです。
気分変調症になってしまった事実は、変わりません。であるならば、今の私を受け入れありのままの自分で生きるほうがいいじゃん。そして、この状況に感謝さえできるような、そんな強さを持ちたい。そう思うようになりました。
…さっきも述べましたが、気分変調症になってしまったことは、決して喜ばしいことではありません。
ですが、その状況だからこそ得られたものもある。気分変調症の私だからこそできることもきっとあるはず。そう信じて生きていきたいと思うのです…。